« [弁理士試験]判例案内(10) | トップページ | 乱読日記[77] »

2008年1月28日 (月)

その薬のはなし

先週末の記事で、家族が風邪をひいて…と書いたが、今日になるともう大分回復してきて、一安心しているところである。

大学院生のころ、修論研究で、物理学での変分計算に遺伝子的プログラミングの技法が使えるのではないかと、ふと沸いたアイディアを推し進め、しかしながら所属していた研究室が原子過程の研究室だったので、それをそのままファインマン経路積分の作用素計算に応用してそれなりの結果を修論の口頭試問で発表した。この口頭試問、小規模大学院らしく、理学研究科の教授全員の前でしゃべるのであるが、題材が悪かった。ファインマン「経路積分」というところで数学科の教師につっこまれ(それは「線積分」ではないのですか?)、「遺伝子的」プログラミング、というところで生物の教授に突っ込まれた(どこが「遺伝子」なのですか?、生物に応用できるのですか?)。
 それはそれとして、ある助教授の先生が、どうせ突然変異や交叉のような現象を入れるのであれば、もっと生物の採っている戦略を真似てみたらどうか、と言う。

▽ 修論がほぼ一段落しているのに、今さらの助言ではあったが、採りあえず物理学会の発表もあったので、参考にさせていただくことにした。生物のいろいろな作用のなかで、最も「戦略的」なのは免疫機構ではないかと(勝手に)思っていた私は、さっそく免疫の作用について多少の文献にあたったが、それはあまりに複雑すぎて、数学的にモデル化したとして何かの役に立てるためには、修論から学会発表までの短い期間では無理がありすぎた。

■ 免疫機構に潜む危険
 細菌などの生きた抗原が体内に侵入すると、好中球という食細胞が抗原を「食う」。抗原を食った好中球は死んでしまうのであるが、この死体は抗原とともにマクロファージ(mΦ)によって消化される。このmΦのすごいところは、その皮質に抗原を捉えて「提示」することである。この「提示」を参照するのがT細胞(Thymus dependent cells)である。もっともT細胞には種類があって、提示された抗原にあったレセプターを持ったT細胞だけが反応を開始して爆発的に増殖し、CD4やCD8というようなマーカー分子を発現するらしい。
 このような反応したT細胞が分化して種々のインターロイキンを産生するT細胞となり、B細胞(Bursa dependent cells)を活性化する。B細胞は抗体を作り出して抗原を攻撃することになる。

 ところで、この CD4 発現T細胞に入り込み、その爆発的増殖のときに合わせて大量増殖し、T細胞を内側から破壊してしまうのが、いわゆる HIV(ヒト免疫不全ウィルス)である。

 このウィルス自体は遺伝情報を RNA で記述したもので、人のように DNA で遺伝情報を持つ生物とは決定的な違いがある。しかし、DNA 複写時には RNA を産生するわけであり、宿主細胞増殖の際に遺伝情報が生成されることになるのである。T細胞の爆発的増殖を利用するあたり、まったく恐るべきウィルスである。

■ 弱点
 このような HIV ウィルスであるが弱点はないのであろうか。
 RNA から DNA をつくるときに使われる酵素は---一般的な生物とは逆向き(DNA→RNAという向きではない)になっているという意味であろうと思うが---、逆転写酵素(Reverse Transcriptase)という。HIV が T細胞 DNA に入り込むためには、この逆転写酵素が必要なわけである。そこでこの逆転写酵素を阻害することが第一に考えられる。
 また、HIV では、ウィルスのプロテイン前駆体からウィルスに必要なプロテインに分割する酵素(プロテアーゼ)が特殊であるので、この特殊なプロテアーゼを阻害することも考えられる。

 また、前者の方法としては、核酸によく似た分子を放り込んで逆転写中の遺伝子に取り込ませ、結果として遺伝情報を破壊する方法(ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤)と、逆転写酵素の活性部位に結合して逆転写酵素の機能を阻害する方法(非ヌクレオシド系逆転写阻害剤)の二種類がある。

 現在のところ、HIV の治療方法としては、これらの各方法に沿って複数種類の薬品を投じる方法(HAART:Highly Active Anti-Retroviral Therapy)というのが効果的であるとして先進国で用いられているらしい。

■ さて、こうして長々述べてきたのは前置きである。ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤の一つに、TDF(通称テノホビル)というものがあるのだが、このテノホビルに関わるギリアド・サイエンス社(Gilead Sciences, Inc.)の4つの米国特許権(USP5,922,695、USP5,935,946、USP5,977,089、USP6,043,230)について再審査請求があり、拒絶がされたというのである。
 もっとも、1月25日現在の IP NEXT というところの記事では、拒絶が確定していないような書き振りであるから、まだハッキリはしないのであるが。
 本件特許の一つ(USP5,922,695)は、次の図のような化合物に関わるものだ(米国の特許公報より引用)。

0801281

案外簡単な構造に見える(化学専攻でない人間としてはカメの甲がないだけでも十分単純に見える)が、「A」や「Z」の中身もあるので、それほど単純なものではない。
 ファミリはPCT出願を含んで多数の国に及んでいて、オーストラリア、カナダ、中国、EP、日本(特開2007-297406、特表2000-515866(特許4033494)の2件)、HIV感染が深刻になっているアフリカ地域における広域出願(アフリカ広域知的所有権機関:AP)等を含む。
 優先権の基礎となった出願が拒絶になったからといって、直ちに他国でも無効になったりはしないものだが、今回の拒絶は、もとのプロセキューション中に明らかにされていなかった文献に基づくものだそうなので、この新たに提示された文献が、各国特許出願・各国特許権にとって致命的になる可能性は否定できない。
 ちなみに、このテノホビル、日本での薬価は 2048.9 円だそうだ。比較になるものではないが、例えばセデスGの薬価が 11.7 円、胃炎薬のプリンペランが5ミリグラムの錠剤で 6.4 円というはなしだから、用途が特定的であることを考えてもかなり高価な薬であることに違いはない(と思うのだがどうだろう?)。
 特許権が排されたとして、薬価が直ちに下がるものではないだろうが、後発医薬の製造が促される契機にはなるのだろうか。
 仮にも貧しい中で病に苦しむ人々の生死を特許権が左右することがないようにと願うが、一方で特許権の魅力が失せていくことで、技術公開の動機づけが失われることもないようにも願いたい。このあたり、技術の内容に応じて、権利の効力や権利期間などについて細かに定めて、立法的解決を狙ってもいいように思うが(弁理士試験受験生からは睨まれそうだが)、どうなのだろう。まぁ、今回の問題の場合、日本ばかり考えてみてもダメな気はするが。

■ ところで、本件米国特許の再審査請求を行ったのは、米国の団体 PUBPAT である。この団体、要するに気にくわない特許権に噛みついて再審査請求を行っているわけであるが、その目的とするところは特許制度による弊害を除くことであるという。まぁ、公益に沿って「あんまりひどい」特許権を排除させているとすれば、特許版「必殺仕事人」のようなもので(自力救済ではなく、ちゃんと公的に排除しているところは異なるが)、米国特許商標庁の審査能力を補って、全体的に有益ではあろうが、仮に変な活動をしているとすると、誰かの私益を守っているのと変わりなくなってしまう。誰か、その活動を客観的に評価してたりするのであろうか。
 今回の場合、先行文献があったのだとすれば、もとより拒絶になるべき発明ではあったというわけで、PUBPAT が無闇に権利者を敵視していたばかりとは思えないが、そもそもこうした団体から目をつけられるあたり、特許権者の権利行使方法についても一考の余地があったのではないだろうか。難しい世の中ではある。

|

« [弁理士試験]判例案内(10) | トップページ | 乱読日記[77] »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: その薬のはなし:

» 4つの画材で動物の19通りの描き方をDVD付きで解説した通信教育系教材です [イラスト上達マニュアル,その薬のはなし]
実際にペットの肖像画を描いているイラストレーターが、4つの画材(鉛筆、色鉛筆、水彩絵具、オイルパステル) を使って動物の19通りの描き方を解説しています。一枚のイラストが描きあがるまでを収録したノーカットDVD付きです。 一つの画材の解説だけを集中的に学習できる分割バージョンもご用意いたしました。 ... [続きを読む]

受信: 2008年1月29日 (火) 16時35分

« [弁理士試験]判例案内(10) | トップページ | 乱読日記[77] »